吉川鶴生

童謡に表現される童心はまさに良心

童心を詩に書き綴った詩人、野口雨情

日本には、素晴らしい童謡がたくさんあります。
詩と曲がともに美しく、楽しく、子供たちが喜んで歌ってくれるような童謡があるというのは、本当に感謝すべきことです。
子供たちの心情を豊かにし、さまざまな情感の世界をはぐくむ童謡は、
日本の貴重な文化遺産と言ってよいかもしれません。

野口雨情(1882~1945)と言えば、よく歌われる童謡の作詞で、知られています。

「雨降りお月さん」「あの町この町」「シャボン玉」「赤い靴」「青い目の人形」「七つの子」「十五夜お月さん」など、
挙げればきりがないほど、多くの童謡が野口雨情の作詞となっています。

幼い頃、家でお母さんが歌ってくれた思い出、幼稚園でみんな一緒に歌った思い出など、
野口雨情の童謡を歌うと、たちまち、子供の頃が蘇ってきます。
日本人すべての中に野口雨情の抒情が刷り込まれていると言ってもよいでしょう。
明治以降の日本人の魂にDNAのごとく、しみこんだ情緒が雨情の世界なのです。

浮き沈みの果てに辿り着いた童謡

野口雨情(本名、英吉)は、茨城県の生まれですが、
代々、水戸藩の薪炭奉行を務め、廻船問屋を営んできた名家に誕生しています。
雨情は早稲田の文学部で学び、半ばで中退します。
その頃から、詩を雑誌に投稿するようになります。

父の死去により、茨城の故郷、磯原に呼び戻され、
22歳の時に、野口家の戸主となりました。
そして、高塩ヒロと結婚式を11月に挙げ、翌々年には長男の雅夫が生まれます。

1906年(24歳)、雨情は樺太へ渡ります。
1911年(29歳)、母の死去によって、故郷に戻り、植林事業に精励、漁業組合の理事としても活躍します。

この後、体をこわし、温泉治療などで時が流れますが、
1915年(33歳)、妻のヒロとは離婚し、2児を引き取って育てます。
湯本温泉で過ごした温泉治療の時代、子供たちと3人で過ごしたことは、
雨情にとって本当に楽しい時であったようです。

1918年(36歳)、中里つると結婚し、水戸で生活を送ります。
1920年(38歳)、「金の船」に入社して、童謡を書き始め、
1923年(41歳)には、満州に渡って講演を各地で行いました。
1925年(43歳)には、日本童謡集の選者を務めます。さらに
1935年(53歳)には、日本民謡協会を再興し、理事長となります。
1938年から1942年にかけて、雨情は中山晋平、佐藤千代子らと、
朝鮮、台湾、北海道、九州を巡歴しています。

53歳の生涯において、童謡と民謡にすべてを注いだ野口雨情は
日本の詩情を表現することに卓越した詩人でした。
その功績は、揺るぎないものがあります。
浮き沈みのある人生を自ら体験した雨情は、童心の表現である童謡の中に、
彼が力を注いできた詩歌の結晶を見いだします。

「しゃぼん玉」は子供の命への愛

野口雨情は、「童謡は童心性の表現」であると言っており、
「童心はまさに良心であって、良心は即童心であります」と述べています。

ちょうど、イエス・キリストが、
「心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ福音書18:3)と
おっしゃったように、雨情は、子供は純粋であり、
神様から与えられた良心の輝きの中で生きているのだということを確信していたのです。

当時は、生まれた幼い子供があちらこちらで亡くなったという話が多くありました。
そういった話を聞くたびに、しゃぼん玉がはじけて消えるような悲しみを雨情は感じていました。

「しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた」
「しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐにこわれて消えた」という
「しゃぼん玉」の歌詞は、
生まれて来た子供の命への限りない愛を示しています。
しかし、その命が、屋根まで飛んで消えるしゃぼん玉のように儚(はかな)いものであった、
もしくは飛ばずに消えたしゃぼん玉と同じように、あっという間の命であったというのです。

「雨降りお月さん」「赤い靴」など、野口童謡には、言い知れない人生の悲しみが織り込まれています。
「ほんとうの日本国民をつくりまするには、どうしても日本国民の魂、日本の国の土の匂ひに立脚した郷土童謡の力によらなければなりません」というのが、
他者への思いやり、郷土と家族を愛する詩情を謳った
野口雨情の心情世界であったということです